昭和50年02月17日 朝の御理解
御理解 第82節
「大蔵省は人間の口を見たようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝ては居られぬ。何処の太郎やら次郎やら分からぬ様になろうぞ。」
お上が在ってそれぞれのお国の立行きの為にお金が要るのです。そのお金が税金に依って納まる。それが納まらぬ時にはお国は乱れて来る。そう言う意味の事だろうと思うです。そこで例えば税金一つ収めるでも、国民の一つの義務だと言う事だけではなくて、それが信心で有難く納められると言う所に、信心者の言わば値打ちがあると思うです。先日富久信会の時に、秋永先生が最後に話しておりました。
丁度その二日三日前に秀彩展ですかね、呉服の展示会をやっとりました。だからその事を通してから、あのう何かお話しをして呉れと私が申しましたら。もう兎に角勿体ない程の素晴らしいタイミング、素晴らしいお繰合わせの中におかげを被りましたが、只もう信心になるより外ありませんと言うとります。何事も信心になるより外はありません。是は商売だけの事ではありません。例えばもう是だけではありません。もう一切がです、所謂信心する者は何事にも真心になれよと。
又は木の切り株に腰を下しても、立つ時には礼を言う様な心持ちになれよと言う。もう是になる以外にはないと言う訳です。本当に私は思わして頂きますのに、私共が安らかな日々を送られると言う事もです、是はお国がちゃんとして居るおかげでありますから、勿論大蔵省は人間の口を見た様なものと仰る。只その分担を大蔵省受け持ってられるのを。受け持っておられる所に、国民が協力する、そう言う事に成らなければ成らんと言う事もです。矢張り国恩を思う時に、そうさして貰わなければ居られない。
所謂何事にも真心にならなければ居られない。木の切り株に腰を下ろしても立つ時には、本当に四分板一枚では寝られない。どこの太郎やら次郎やら分からぬ様な事になったのでは大変だけれども、此の様に日々国の勢と言うか、国恩を感じて、私共が生活をさして貰うと言う事を、教えて下さる。税金が高いの安いのと言う様な事では、間違いから沢山大きな欠点の所は、正さなければならんでしょうけれども、出来るだけ払わんと言う様な、まあ言わば根性からです。
本当に少しでも余分に、お国の為にお役に立たせて頂く事の為に、少しでも払える様な余分に、余計に払える様なお繰り合わせを頂いたら良いのです。だかあのうお道の信心者の中にはね、沢山の税金を納めると言う事、納めると言う事は、沢山のお金を誰よりも充分に頂いておる事だからと、思うて行く様な行き方の人があります。必ずそう言う人ならおかげを受けます。
どうしたなら税金を少なく納める事が出来るだろうか、と言う様な誤魔化す稽古をしている様な事で、神様信心と言うたって駄目です。少しでも余分に納めれる事を願えれる、そう言うおかげを頂かなければならぬ。教祖様の場合なんかあのう年貢の納めをなさる時でも、例えば一俵で良いものを余分に、今年は収穫が多いかったからと言うて、沢山の上納をなさっとられますですね。そういう生き方が私は金光教の、言わば教祖が身を以って教えられた、その教えを私共が身を以ってまた受けて行こうと言う。
その位な私は気持ちがなからねばいけん。その為に一切、昨日の御理解ぢゃないけれども、神様の御物だと言った様な考え方がスキッと出来なければ、その様に垢抜けして参りません。同時に今申します様に、秋永先生が言っとります様に、もう兎に角何事にも信心になれよと仰る。真心になるより外にありません。そこにはね素晴らしいタイミングが生まれて来る。素晴らしい信心のおかげの世界が開けて来ると言う訳です。
八十二節のその前の八十一節に、氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬ、と言う様な事を教えてあります。例えば信心させて頂いて、も是でやれやれと言う様な心はです、今申します此の八十二節にあります様な、税金でも値切って払おうと言うことでなくて、少しでも余分に払わして頂く事を有難いとする行き方がです、此の九里半の先の所を、確かなものにして行く様に思います。ね。
そう言う生き方が、身に突いて来る時にです、そこに私はやれやれと言う心は起きて来ないと思うです。所謂何事にも真心にならして貰う。木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う心と教えられておる。日本国と言う言うならば、国に住まわして頂いて、様々な難儀な国も随分あります中に、こうして平穏無事な毎日を過さして頂くのも、矢張り国恩だと、ね。国の恩を悟り解らして貰うたら、その国に対する所の国民の是は義務として、税金を納めねばならない。
出来るだけ無税で、出来るだけ税金のない掛からん様な、と言う様な事だけに考えたんではお国が立行きません。大蔵省はその国のいわば口を見た様なものでと仰っとられる。その口に税金が納まらなかったら、国力が劣って来る。国が乱れて来ると言う様な結果にもなりかねないと言う様な、ですから本当に皆さんが、例えばその税金でもです、ね。去年は千円納めたなら、今年はせめて千五百円位納められる位なおかげを頂きたいと言う願いを持たなければいけない。そう言う心が神様の心に通うのです。
その内容としてです、矢張り何事も真心になるより外にない。其処には素晴らしいタイミング、愈々おかげの世界が開けて来ると言うのです。言うならば、又その内容を言うならば、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う様な心持ちです。ましてや天地の大恩と言やあーそれまでですけれども、それを又小さく言うと、国恩と言う事にもなります。お国に対する所の、お返しをさして貰わねばならない。
国が愈々立行く事の為に私共が働いて、猛々しそうに税金を矢張り納めなければならない。お国が立行く事の為に、それに出来るだけ値切ろう、出来るだけ少なくなる様にと言った様な、事でそう言う心ではおかげにならんと言う事。税金が毎年毎年高くなって行く、税金が余計に払われて行く様になる。それは言うならば、国民として力なのだ。それだけ余分に余計に払わせて頂くだけ、余分に貢献する事になるのだと言う様な、私は考え方が出来る様な信心。
どうぞ幾らでも少しは増しな税金が納められる様な、おかげを頂きたいと願わして貰う所にです、其処には秋永先生ぢゃないけれども、何とも言えぬ素晴らしいタイミングの中に、おかげの世界がひらけてくる。去年は千円だったけれども、今年はおかげで千五百円払わして頂いたと言う事に、喜びを感ぜれる様な、私は国民が沢山居って、国力と言うか国は愈々治まって行き、国はいよいよいわゆる天下国家の事を願う、諸国成就と言う事を教祖様は仰っておられる。
天下泰平言うなら諸国成就と言う、諸国成就の幟染め立てと言う、ね。そう言う私は勢いを持った国民があるお国柄にならして頂かなければならない。ただ世界の真の平和とか、日本の繁栄を口では祈りながら、税金は出来るだけ納めん事ある風にお願いすると言った様な事で、国の繁昌を願っているとは言えない事になるじゃないですか。皆様願って居られる世界総氏子身の上安全、世界真の平和を願って居られる。そんならば世界に貢献しなければならない。
そんならばお国に貢献しなければいけない、その第一が税金である。その税金が国民の一人一人が出来るだけ、もう少しましな税金が納められる程しのおかげを受けたい、受けさせて貰いたい。今年は千円であったが、来年は千五百円の税金が納められる事が出来る様な、おかげを願わして貰うと言う、そう言う心根が神の気感に適う、そう言う生き方がです、私は九里半登っても安堵する様な慢心をする様な、やれやれと言った様な心の起こらないで済む信心を。
愈々本当なものにして行けれるおかげとう言うのは、そう言う心掛けからだと思います。今日から皆さんどうぞね、今年は此の位の税金だったけど、来期には少しましな税金が納められる様なおかげを頂かして下さい、それはお国に対する貢献だ。神恩奉謝の現れがお国の恩を感じる時です。そう言う心掛けにならせて頂ける事がです、商売繁昌も約束される事になると、私は思うんです。
可笑しいでしょうお国の繁栄を願いながら、税金は出来るだけ納めんがよかと、それで口で言うている事としている事が裏腹じゃね。昨日は久留米の矢次さんのお宅の宅祭り、毎年十六日が宅祭りです。もう本当にもう何時もお祭りの時、あそこで感心することはあそこの御主人お父さんが、お供え物を買いに行かれる時にもう、本当にもう野菜一本缶詰一つの上にでも、思いを込めておられるなあと言う事が感じられる。
もうそれは缶詰なら同じ缶詰でもね、それは缶詰をお供えしてあるです何処でも。それも安かつの、もう百円で何個か来るちゅうとば撰って買って来る人が多いですね。只缶詰でさえあればよか訳です。ね。果物なんか安かつの例えば今頃はそげなこつなかろうばってん、四個で百円と言うのが、昔はありましたよね、そげなとば成程お三宝一台に盛っちゃる。例えばあのう、矢吹さん所へ参りますとね、日頃はお供えしない様な缶詰がお供えしてあるです。言うならば最高の缶詰がお供えしてあるのです。
果物でも同じ事ですけど、野菜なんかと言うたらもうそれこそなんと言うですか、久富先生が盛り付けする時に、あまりにも珍しい素晴らしいお野菜ばかりじゃから。それをお三宝一台に盛らなきゃならんから大変だと言われる位に、もうそれこそ見事な言うならば高級野菜をね、もう本当に思いを込めて集めて居られると思わなければ居られないです。野菜さえあれば良い缶詰でさえあれば良いと言うものぢゃない。
常日頃は例えばあり合わせの缶詰、ただ家に頂く為のお野菜、それでそれを清め、それを御神前に供えると言う事ですから。けど年一回の謝恩のお祭り言う時にはです、もうそれこそ日頃は口にもしない様な良い、言うならばお野菜を沢山お供えに盛って下さいと言うて出してある。缶詰なんかも日頃は口にもしない様な缶詰をちゃんと揃えてある。私はそう言う様な心掛けがです、ね。
日常生活の上にも現されて来たら、素晴らしいと思うです。例えば税金一つを納めるでもです、只納めんならんから納めるのではなくて、国の恩を思うたらです、納めなければおられない。それもこぎる段ぢゃない、値切る段ぢゃない、それこそ少しでも余分な税金が納められれる様なおかげを、頂かして下さいと願う様な心です。例えば税金なら税金でも、思いを込めると言う事です。是がお国に対する所の奉謝の心だと思う事です。その心掛を神様が買いなさる。
今年は千円の税金であったが、来年はもう少しましな税金が納められる様な、お繰り合わせを願うそう言う国民が、多くなれば多くなる程、その国は麗しい国平穏な国という事に、国造りと言う事が出来ると思うです。人間造り国造りそう言う風な事が言われますけど、そう言う心掛けの人が、私は段々増えて来なければいけない。天下国家の事を願う。世界の平和を願う、総氏子身の上安全を願う、願いながらそれとは反対の様な思い方やら、行いをしておっては、その折角の願いが願いにならない。
日本国の言わばはんえいを願う。しかもその繁昌は世界のはんえいに繋がる様な、繁栄でなからねばならぬと私は思う。そう言う祈りを持つ、それには先ず日本国が繁栄しなければならない。なら国民が出来るだけ納税をせんで済む様な事で、国民が居って繁栄になっ行く筈がないぢゃないか。ね。そこで信心する者は、何事にも真心になれよ、と言うその心根がね、今言う様に少しでもましな税金が納められる様なおかげを頂かして下さい、と願わにゃいけんです。
その心掛けが神様の心に適うから、今年は千円だけども、来年は千五百円払わして頂ける程しの大繁昌のおかげを頂く良いでしょうが。どげんして税金ば誤魔化してやろうかと言う様な事で、お国の繁栄を願った所でそれは本当のおかげになりません。どうぞ少しでもましな税金が納められる事を願わして貰う。それはとても教祖の様な真似は出来ません。税金が千円言って来ても、今年は余計に儲かったけん千二百円納めますと言うても、まあーそれもせんでしょうけれどもです。
教祖様はそれをなさった。今年は余計に美しゅう獲れたから、普通では勿体ないと言うて、一俵納めれば良いものを、言わば二俵納める様な在り方になられた。そこに教祖の御信心がある訳です。缶詰のお供えをするお三宝一台でさえあればよい、安かつから撰って来ると言った様な事ではなくて。せめて年に一回のお宅祭りであるから、日頃はそれこそ買えない手の出せない様な缶詰があるとするなら。
日頃は百円の缶詰をお供えするなら、それこそ二百円の缶詰でも、お供えさして貰う様な、そう言う心根心掛けがおかげになるのです。私は今日御神前でこんな事を頂いた。いの一番に命ある事と言う事、そして五つ数え歌の様に二つ、三つ、四つ、五つまで素晴らしい事を頂いたけど一寸今私は忘れた。忘れたけれどもいの一番に頂いたのは、命ある事と言う事である。今ん日お生かしのおかげを頂いておるこの喜びだけででもです、神恩奉謝の心言わば国恩に対する奉謝の心。
と言うものが湧いて来る様なおかげを頂きたい。いの一番に命ある事。是が心の底からお礼が申し上げられる、そのお礼のしるしが、例えば税金になって来る様なおかげになったら、素晴らしい事だろうかと思います。そのいの一番に私共がお礼を申し上げねばならない事は、今日も目覚ましのおかげを頂いた。命あると言う事にです、万腔の喜びを感じられる様な信心、そこから何事にも真心にならなければ居られない。そこから何とも言い様のない程しの。素晴らしいタイミングが生まれて来る。
言葉に現せない程の神乍らな商売がさして貰えれる。是は秋永先生の言葉です、何事にも真心になる。成程木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言うその心持ちがです、全ての事に伝わって行く。言うならば税金一つ納めるにでもそう言う心にこもった税金が納められる様なおかげを頂きたい。今年よりも来年は少しはましな税金が納められる様なおかげが頂きたいと願わして貰うそう言う心根に、私はおかげがあると思うですね。
どうぞ。